勝鹿 北星さんと「MASTER キートン」

(注)このページには主観的推測が多いので、話半分に読んで下さい。

1982 年、長崎 尚志さんは小学館「ビッグコミック」の「ゴルゴ 13」(さいとう・たかを)の担当編集となり、すでに「ゴルゴ 13」の中堅脚本家であったきむら はじめさんと組むことが多くなります。

同年、きむらさんは小学館「週刊少年サンデー」の「なんか妖かい!?」(作:きむら はじめ/画:里見 桂)を開始、ヒットさせています。

長崎さんが担当編集になった直後、「ゴルゴ 13」の脚本家には工藤 かずやさんが加わります。

1956 年生まれ 26 歳の長崎さんは、1946 年生まれ 36 歳のきむらさんや 1941 年生まれ 41 歳の工藤さんと意気投合し、「いつか、一緒に連載を持ちましょう!」となったのではないでしょうか。

一方、1960 年生まれ 22 歳の浦沢 直樹さんが、大学卒業記念にマンガを小学館に持込み、長崎さんの師匠の編集者で、後に小学館「ビッグコミックオリジナル」編集長になる林 洋一郎さん(故人)の薦めで応募した小学館ビッグコミック第 9 回新人コミック大賞に入選(「Return」1982 年)、デビュー(「BETA!!」1983 年)します。

浦沢さんのデビュー誌は「ゴルゴ 13」別冊で、担当編集は長崎さんでした。

1984 年、きむらさんは「なんか妖かい!?」を終了し、長崎さんは「ゴルゴ 13」の担当編集を外れます。

以降、きむらさんは「ゴルゴ 13」を離れ、「ビッグコミックオリジナル」の「ホット DOC」(作:きむら はじめ/画:加藤 唯史)などの原作を担当するようになります。

1985 年、「ビッグコミックオリジナル」に異動していた長崎さんは、「パイナップル ARMY」(作:工藤 かずや/画:浦沢 直樹)を開始します。

しかし、工藤さん vs 浦沢 & 長崎さんで意見が対立し、工藤さんが原作を書かなくなるか、書いても浦沢 & 長崎さんが大幅に変更したり全く別の話を作ったりするようになり、朝日新聞社「AERA アエラ」2005 年 4 月 4 日号の「ほとんど浦沢 & 長崎さんが作っていた」という発言に繋がります。

1986 年、浦沢さんは小学館「ビッグコミックスピリッツ」で、単独で「YAWARA!」(浦沢 直樹)を開始します(初代担当編集は奥山 豊彦さん)。

1988 年、浦沢さんは「パイナップル ARMY」を終了して、同じく「ビッグコミックオリジナル」で長崎さんと「MASTER キートン」を開始しますが、「YAWARA!」との並行になるため、きむらさんが原作を担当することになります。

このとき、きむらさんが「ビッグコミックオリジナル」で「ホット DOC」を連載中だったことが、少し問題になったのではないでしょうか。

作品によりペンネームを変えるマンガ原作者を参考に、原作者がペンネームを変える理由を挙げてみます。

  • 同一雑誌で同時連載
  • 出版社毎の使い分け
  • 先入観の払拭
  • 心機一転

「同一雑誌で同時連載」に該当したきむらさんは、もう 1 つのペンネームとして勝鹿 北星を名乗ります。

こうして、「ビッグコミックオリジナル」6 月 5 日号には、「ホット DOC」と「MASTER キートン」が、きむら はじめと勝鹿 北星という別名義で掲載されます。

ビッグコミックオリジナル

「ホット DOC」は 8 月 20 日号で終了しますが、「MASTER キートン」の原作は勝鹿 北星名義のままなので、謎の原作者となります。

なお、「同一雑誌で同時連載」は、後に小学館「ビッグコミックオリジナル増刊号」(季刊)の「たちまち晴太」(作:きむら はじめ/画:水島 新司)と「キートン動物記」でも起こります。

「MASTER キートン」がヒットしたのは良かったのですが、「パイナップル ARMY」同様、きむらさん vs 浦沢 & 長崎さんで意見が対立し、きむらさんが原作を書かなくなるか、書いても浦沢 & 長崎さんが大幅に変更したり全く別の話を作ったりするようになり、文藝春秋「週刊文春」2005 年 5 月 26 日号の「浦沢 & 長崎さんが作る話が主流になっていた」という発言に繋がります。

「アストロ球団」(作:遠崎 史朗/画:中島 徳博)の例と同様、単行本の印税は折半のままでしたが、きむらさんは友人 D に「長崎さんは、もう俺のことを必要としなくなったんだ」と漏らし、「締め出された」と感じます。

「MASTER キートン」連載後半、きむらさんがどの程度関わっていたのか分かりませんが、6 年半ぶりに「ゴルゴ 13」の脚本を書いたこともありました。

1993 年と1994 年に、「YAWARA!」と「MASTER キートン」が終了します。

それまで主に小学館で作品を発表していたきむらさんは 1996 〜 1999 年、集英社「ビジネスジャンプ」で「SEED」(作:ラデック・鯨井/画:本庄 敬)を連載します。
このとき、心機一転を図り、新しいペンネームであるラデック・鯨井名義とします。

1998 年秋から 1999 年春に掛けて、アニメ「マスターキートン」が放映され、オープニングの原作と作画の表記順序が「浦沢さんが先/勝鹿さんが後」と逆転します。

アニメのビデオ & DVD 化に合わせて発売された「キートン・マスターズ・ブック」では、きむらさんに関する記述がほとんど削除されます。

後に、DVD は海外でも発売されるようになりますが、印税は折半だと思われます。

2000 年頃、浦沢さんが「印税は折半のままでいいから、勝鹿さんの名前を小さくしてほしい」と持ち掛け、きむらさんも同意します。
ただし、このときのきむらさんの病状は分かりません。

しかし、きむらさんの電通時代からの同僚であり親友でもある雁屋 哲さんは、

  • 勝鹿 北星の名前が小さくなること
  • 原作者が軽んじられること

に憤りを感じて小学館に抗議し、単行本とワイド版が重版・増刷されないのではないでしょうか……。

更に想像力を逞しくして、長崎 尚志さんの横領が本当の場合はどうなるでしょう?

(注)このページには主観的推測が多いので、話半分に読んで下さい。