きむら はじめさんと「ゴルゴ 13」

きむら はじめ = 勝鹿 北星 = ラデック・鯨井さんは、きむら はじめ名義で「ゴルゴ 13」(さいとう・たかを)の脚本を担当していましたが、担当した回の全部を把握するのは困難です。

小学館「ビッグコミック」連載時には全スタッフがクレジットされていますが、単行本では省略されてしまっているからです。

1 つは、「ゴルゴ 13」第 64 巻「2 万 5 千年の荒野」です。
「さいとう・たかをセレクション Best 13 of ゴルゴ 13」収録の「さいとう・たかを、大いに語る」に、以下の記述があります。

描いていてゾッとするような話だった。
脚本は、きむらはじめ氏。
よくこんなことを考え付くよなと思ったものだ。

Best 13 of ゴルゴ 13

「ダメと言われてメガヒット」(宇都宮 滋一)の未掲載原稿(宇都宮さんのブログで公開されていましたが、現在は閉鎖)によると、きむらさんは約 10 年間「ゴルゴ 13」に携わったそうです。

菅伸吉さんもかつてメインライターの1人だった。「ゴルゴ13」では「きむら・はじめ」というペンネームを使い、「マスターキートン」(浦沢直樹画)では「勝鹿北星」、ほかに「ラデク・鯨井」なども使っている。 ちなみに、「きむら・はじめ」というペンネームは、実名の少年からつけたという。

昭和21年1月3日、千葉県生まれ。44年、小樽商科大学卒業後、電通に入社。5年間、PR担当をしていた。同期入社で、いまも親友なのが「美味しんぼ」の雁屋哲さん。

少年マガジンに連載された競輪マンガ「ひとりぼっちの輪(りん)」(池上遼一画)は雁屋さんと2人で原作を書いた。「当時、マンガの原作者は、梶原一騎さんと小池一夫さんの2人しかいない。これから原作者が必要になる」と考えていた。

マンガは好きだった。とくに「あしたのジョー」は読みふけった。ジョーのライバル、力石の葬儀(昭和45年3月24日)に講談社に行ったほどだ。「僕らは全共闘世代で、世の中ハスに見てますから。マンガしかなかった。雁屋にはバカにされましたね」。

当分の間は、電通勤務のサラリーマンとマンガ原作の二足のわらじをはいていた。雁屋さんは「男組」(池上遼一画)で売れっ子になったが、菅さんはパッとせず、翻訳物のゴーストなどを長くやっていた。週刊少年サンデーの「なんか妖怪」(里見桂画)がヒット作となったことが、次のステップにつながった。「まもなくしてゴルゴの原作の話がきた」という。
最初のシナリオは、「アイボリーコネクション」。象牙の密漁の話だった。

ほかに、「穀物戦争」「日・米コメ戦争」などを手がけた。「河豚の季節(ふぐのとき)」では、第2次世界大戦中、ナチのユダヤ人狩りから逃れたユダヤ人にビザを発給し、多くのユダヤ人の命を救った外交官、杉浦千畝(ちうね)氏の実話を下敷きにして、ストーリーを組み立てた。

「新聞を読んでいると、国際情勢の流れが見えてくる。ブラックマンデーが実際に起きる前にそれを予言した話も書いてました。電通時代は、企業の悪いネタをもみ消す仕事だったから、AP、共同の外電を見ていた。米国がダンピング問題で日本の商品に文句を言ってくる、などというのは謀略の世界ですよ」

「個人の怨念より、国際社会や企業の動き、相場を扱いたい」菅さんにとって、ゴルゴ13はうってつけの作品だった。大つかみの国際情勢を下敷きに、定説の裏にありそうな話を10年間くらい書き続けた。

脚本家に会わない主義のさいとうさんも、菅さんには「シナリオ、おもしろいね」とほめて、たまに飲みに誘ってくれたという。「親分はいつもジーパンとTシャツ姿でした」

菅さんは、いまこう振り返る。
「ゴルゴ13は、キャラの設定がしっかりと決まっていた。笑わない、握手をしないなど。そこさえおさえれば、だいたいのものが書けた。間口の広い原作者の登竜門だった」

引用文中に「同期入社」とありますが、雁屋さんは 1941 年 10 月 6 日生まれで 4 学年上なので、同僚であっても同期とは考えにくいです。

また、「週刊少年サンデーの『なんか妖怪』(里見桂画)がヒット作となったことが、次のステップにつながった。『まもなくしてゴルゴの原作の話がきた』という」とありますが、「ゴルゴ 13」の方が「なんか妖かい!?」より先です。

更に、「最初のシナリオは、『アイボリーコネクション』」とありますが、後述する通り、最初に「発表した」シナリオは「死の翼ふれるべし」です。
最初に「書いた」シナリオは「アイボリー・コネクション」かもしれません。

その後の勝鹿 北星さんと長崎 尚志さんの創作活動を以下に述べます。